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田宮 五郎

河北町の偉人
ふりがな

たみや ごろう

​解 説

慶応元年(1865)5月村山郡大町村(現河北町谷地)に生まれ、14 歳のとき五郎を襲名して 12 代の家督を継ぎました。

田宮家は代々村役人を務める家柄で、五郎氏もまた役場の書記等を歴任しました。田宮家では 8 代五右衛門が江戸表より草履表の編造法を習得してきて婦女子に伝授し、9代・10 代が引き続き事業の発展に尽くしました。これを受継ぎ、当時農家の副業として行われていた「草履つくり」を、なんとか主産業に高めて地域を発展させようと鋭意努力しました。


苦労の末、ついに明治 22 年(1889)、日本初の『ぞうり表圧搾機』を発明し、この機械は第三回内国勧業博覧会で名誉褒賞を受賞し、専売特許も取得しました。この機械で加工した草履表は、「つぶしぞうり」と言われ、廉価なのに「見た目が綺麗で艶があり、高価な棕梠(しゅろ)皮や竹皮表に劣らない」と全国的に高く評価され、この地方の主産業となりました。

また、学問に対しても広い視野を求め、後に貿易商として名を成す親友の石川賢治と諮って、のちの大礼記年谷地図書館の基となった「谷地読書協会」を結成し、本県図書館運動の草分けとなりました。


明治 44 年(1911)、町議会で懸案の上水道設置の件が議決されると、水道委員に選出されました。早速先進地水戸市の水道視察に出向きましたが、旅館で病に倒れました。しかし小康を得るとすぐ病弱の身をおして上京し、水道工事の設計や工事の監督の招聘に尽力しました。

(写真提供:田宮印刷株式会社)

<年表>
  • 慶応元年 羽州村山郡大町村(現河北町谷地)の老舗名門の田宮家に生まれる。幼名謙蔵

  • 明治6~10年 北口陣屋の開明学校に学ぶ。

  • 明治11年 兄勝蔵早世し謙蔵が家督を継ぎ、第12代田宮五郎を襲名する。幼少のため義兄政蔵が後見する。

  • 明治13年 谷地郵便取扱所の事務取扱に任ぜられた。

  • 明治15年 大町村御用掛に推された。

  • 明治16年 細谷巌太郎の養女、はまと結婚

  • 明治17年 大町村外七ヶ村戸長役場の書記に就任

  • 明治18年 石川賢治と主唱して谷地読書協会を結成

  • 明治22年 草履表圧搾機を発明した。

  • 明治23年 草履表圧搾機を第三回内国勧業博覧会に出品し名誉褒章を授与された。農商務省に出願中だった専売特許が許可され、この圧搾機を郷土の同業者14名と同盟を結んで使用を許可した。

  • 明治30年 町会議員となる。

  • 明治31年 谷地町水道期成同盟会と協力して飲料水問題解決の啓蒙運動を始め、翌32年には、飲料水の調査費を町費に計上させたり、内務省の専門技師に設計を委嘱する交渉をやるなど、上水道設置の促進に尽力した。

  • 明治36年 冬期農閑期中に宮城県の農村に草履表編造の講習、巡回指導を行う。このころより県内各地及び他県にも出向いて指導をおこなった。

  • 明治42年 谷地町誌編纂委員に委嘱された。合資会社谷地草履同業組合を設立(五郎の死により翌年解散)

  • 明治43年 後に田宮活版所(現田宮印刷)となる活版所を始めた。(設楽徳兵衛氏の後を承けて)水道委員(町会議員中より7名)に任命され、以後事業の促進に尽力した。

  • 明治44年 水道委員の県外視察に同行して水戸市で病に倒れた。小康を得ると水道工事のことで上京するなど奔走し病状悪化。

  • 10月5日自宅で病死。慈眼寺に葬られる。(47歳)

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