

名和 三幹竹
河北町の偉人

ふりがな
なわ さんかんちく
解 説
河北町名誉町民 昭和 50 年 6 月 20 日顕彰
本名を香宝と言い、明治 25 年(1892)に谷地村岡前(現河北町谷地)の安楽寺の長男として生まれました。
明治 41 年(1908)5 月、東北行脚の大谷句仏上人が安楽寺に寄った折、俳句に興を示した若い香宝に文才を感じたのでしょう、京都遊学を勧められ、真宗京都中学(現大谷高校)に入学しました。19 歳の時、碎花の俳号で作句を始め、後に三幹竹と改号し「懸葵」や河東碧梧桐の「日本俳句」に投句しました。大正 2 年(1913)には大谷大学に入学し、24 歳の時「懸葵」の編集者・雑詠選者となりました。大正 10 年「乙字句集」を編集しました。
昭和 7 年(1932)10 月安楽寺の住職を拝命しました。翌年の暮れ、母が死亡し、父も病床に就いたので、昭和9年1月やむなく京都を離れて谷地に帰郷しました。10 月には「懸葵」の編集所を山形に移し、最終刊まで編集者と選者を全うしました。また、改造社版「俳句三代集」を句仏の代選で刊行しました。
戦後「銀嶺」を創刊し、休刊まで選者を続け、「ひまわり」が創刊されるやその選者になるなど多くの活躍が認められ、昭和 42 年(1967)、斎藤茂吉文化賞を受賞しました。ひまわり句会は「三幹竹句集」を出版し、安楽寺の境内に離洛留別の句碑を建立しました。これは谷地雛祭りで必見の穴場です。

<年表>
明治25年 谷地安楽寺に生まれる。
明治41年 大谷句仏、東北行脚の途中で安楽寺に立ち寄る。
明治41年 句仏の勧めで京都中学に入学
明治44年 俳号を碎花から三幹竹に改める。
大正2年 大谷大学入学。句仏・乙字に師事する。
大正5年 「懸葵」の実質編集に当たる。
大正9年 杉島ひでをと結婚する。
昭和7年 安楽寺14世住職を拝命する。
昭和8年 母が没する。
昭和9年 京都を離れ帰郷する。「懸葵」の編集所を山形に移す。
昭和11年 父が没する。
昭和14年 改造社「俳句三代集」を刊行。句仏の代選をする。
昭和19年 「懸葵」最終刊(474号)となる。
昭和21年 「銀嶺」を創刊する。
昭和24年 「銀嶺」休刊となる。
昭和27年 「ひまわり合同句集」発刊
昭和36年 「ひまわり」創刊
昭和42年 ひまわり句会「三幹竹句集」刊行する。
昭和42年 斎藤茂吉文化賞を受賞する。
昭和42年 ひまわり句会が安楽寺に句碑を建立する。
昭和50年 午前0時20分示寂。享年83歳
<主な著作物・編纂物・作品等>
懸葵 (出版:明治37年)
ホトトギス (出版:昭和34年)
獺祭、獺祭書屋俳旬帖抄 上巻(出版:明治35年)
日本俳句鈔 第一集 上下巻(碧梧桐編)(出版:明治42年)
日本俳句鈔 第二集(碧梧桐編)(出版:大正2年)
日本俳句第一輯(出版:大正3年)
乙字句集(出版:大正10年)
大須賀乙字伝(村山古郷著)(出版:昭和40年)
ひまわり合同句集(第一、二集)(出版:昭和27年)
句仏句集 読売新聞杜(出版:昭和34年)
ひまわり (出版:昭和36年)
三幹竹句集(出版:昭和42年)
我は我(碧梧桐を離れ大正3年から懸葵に発表、句仏著)(出版:昭和43年)
冬野句集、摘草篭(出版:昭和48年)
三幹竹遺稿(年代順、名和香薫編)(出版:昭和54年)
高浜虚子全集第十五巻(生誕百年記念出版)
三幹竹俳句集(五十音順、高橋善一自筆編)