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西川 菊畦

河北町の偉人
ふりがな

にしかわ きっけい

​解 説

西川菊畦氏、本名豊太郎(ほかに光ともいう)は、文久元年(1861)4月、父西川耕作、母なみの長男として西里村塩之渕(現河北町西里)に生れました。幼い時から漢学を好み、同村の逸見魯斎の塾で漢詩の指導を受けました。


明治6年(1873)には天童貫津の格知学舎に入り、本沢竹雲について経史・詩文を学びました。また、父耕作が県議会や郡長在任中は、留守を預かり父に代わって家業に励む傍ら、画を寒河江の柿本鉄堂に学び、四君子(蘭・菊・梅・竹)を得意とし、漢詩の全国的な大家大沼枕山(ちんざん)・小野湖山に学び、向井黄村の「晩翠吟社」に加盟するなどして詩作に専念しました。また、書は文徴明(明の書・画家、詩人)の書風を学んで、能筆家の誉れが高く、多くの作品を残しました。


この間、菊畦が著した漢詩集は 20 数冊に上りますが特に、明治 39 年(1906)の『梅印唱和』から、昭和 10 年(1935)の『鴻爪雪泥集』『菊畦餘藁』までは、毎年 1 冊ずつを発行し、広く諸名士と交流することを楽しみにしていました。

さらに村民の信望も厚く、明治 34 年(1901)41 歳の時に西里村助役に就任し、西里小学校の移転改築に尽力し、その後も村会議員や学務委員を勤めました。本沢竹雲亡き後は格知学舎の 2 代目理事長として、同舎の維持管理と学風の存続に心を砕きました。

<年表>
  • 文久元年 父西川耕作、母なみの長男として西村山郡西里村塩之淵(現河北町西里)に生まれる。

  • 明治元年 同村の逸見魯斎に漢学を学ぶ。

  • 明治6年 貫津(現天童市)の格知学舎に入り、本沢竹雲について経史・詩文の研鑽に励む。この頃から、大沼枕山・小野湖山に漢詩を学び、寒河江の柿本鉄堂に絵の指導を受ける。

  • 明治11年 向井黄村「晩翠吟社」を創設するや、間を措かず加盟する。

  • 明治16年 父耕作、西村山郡長となる。

  • 明治21年 東京・京都を旅し、大沼枕山・福島柳圃・中根半嶺・渡辺鼎外の諸名士を訪ねる。

  • 明治31年 父耕作、飽海郡長となる。

  • 明治32年 恩師逸見魯斎没する(53歳)。

  • 明治33年 西里村白山堂の白山神社境内に逸見魯斎の碑を建立する。

  • 明治34年 西里村助役に就任する。

  • 明治36年 魯斎詩集「指翠堂絶句鈔」を編集する。

  • 明治38年 西里村助役を退任する。

  • 明治40年 格知学舎の本沢竹雲没す(72歳)。

  • 大正9年 母なみ没す(78歳)。

  • 昭和4年 長男彦右衛門没す(49歳)。

  • 昭和5年 財団法人豊安財団の第2代理事長として格知学舎の経営に尽力する(昭和12年まで7年間)。

  • 昭和5年 六男六郎没す(35歳)。

  • 昭和8年 妻きみ、長女菊と共に最上三十三観音を巡拝する。

  • 昭和10年 妻きみ没す(78歳)。

  • 昭和13年 没す(78歳)。南山院東籬菊畦清居士。西里村永昌寺に眠る。


<主な著作物、作品等>
  • 二京遊草(出版:明治21年)

  • 指翠堂絶句鈔(編集)(出版:明治36年)

  • 梅印唱和(出版:明治39年)

  • 先考行状(出版:山形活版社印刷 明治39年)

  • 遊仙小草(出版:明治41年)

  • 端硯詩巻(出版:明治41年)

  • 青雲白壁唱和(出版:明治43年)

  • 杖家唱和(出版:大正元年)

  • 菊畦一枝 一集(出版:大正2年)

  • 登獄小藁(出版:大正3年)

  • 薄遊倡和(出版:大正5年)

  • 菊畦一枝 二集(出版:大正5年)

  • 菊畦弌枝 三集(出版:大正5年)

  • 虚堂遺藁 乾坤 本澤竹雲著 西川 光/逸見 義 共編(出版:格知学社 大正9年)

  • 菊畦吟交集(出版:大正10年)

  • 菊畦一枝 四集(出版:大正13年)

  • 菊桜吁喁(出版:昭和2年)

  • 菊畦一枝 五集(出版:昭和3年)

  • 雙壁相映(出版:昭和3年)

  • 鑽仰餘意(出版:昭和4年)

  • 菊畦文藁(出版:昭和6年)

  • 鎌倉十二律自解 小野湖山著(出版:昭和7年)

  • 最上三十三山巡礼詩(出版:昭和9年)

  • 菊畦吟交集 第二篇(出版:昭和10年)

  • 鴻爪雪泥集(出版:山形活版社 昭和10年)

  • 菊畦餘藁(出版:寒河江町今野印刷 昭和10年)

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