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西川 耕作

河北町の偉人
ふりがな

にしかわ こうさく

​解 説

天保 13 年(1842)西里村塩之淵(現河北町西里)に生まれました。


幼い頃同村白山堂の逸見甚四郎や楯岡湯沢(現村山市)の菅原万蔵に学び、鈴木孝作に剣術の手ほどきを受けました。身長180センチ近く、体重97キロの巨体で、発言は的を得ており、太い声での話しぶりは独特の風格があったといいます。明治9年(1876)には小六区副戸長となり、翌年には第二区代表となり、時の県令三島通庸に対して、民費軽減を強く要求しました。生来政治には鋭い感覚があり、後に政界で大活躍をするようになりました。


明治 12 年(1879)第1回県会議員選挙に当選し、やがて議長に選ばれ、当時鬼県令と言われた三島通庸の重税策に対する反対の旗頭が西川議長でありました。県当局は、西川議長の攻勢を恐れて西村山郡長に任命したのだといわれています。


氏は 15 年間、名郡長として西村山郡発展のために尽力しました。その第一は寒河江川の堤防建設でした。寒河江川は河床が高いため、長雨が続くと水田は泥沼になり、稲は半作にもなりません。郡長自らが大堰の管理者となり、各町村をまとめて「大堰水理組合」をつくり、5年後には待望の堤防工事を完成させました。そのほか郡立西村山中学校の創立、白岩発電所の開設、左沢大井沢道の拡幅、官有林の払い下げなど当時の最重要課題を解決し、大きな功績を残しました。

<年表>
  • 天保13年 西川耕作 西里村塩之淵(現河北町西里)に生まれる。逸見甚四郎塾、菅原万蔵塾に学ぶ。

  • 明治9年 官選によって小六区副区長に選ばれる。

  • 明治12年 第1回県会議員選挙に当選

  • 明治15年 県議会副議長に就任

  • 明治15年 県議会議長に就任

  • 明治16年 西村山郡長に任命される。

  • 明治31年 飽海郡長に任命される。

  • 明治32年 任地において没す。58歳

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