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逸見 魯齋

河北町の偉人
ふりがな

へんみ ろさい

​解 説

弘化3年(1846)、西里村白山堂(現河北町西里)の逸見庄左衛門家に生まれました。父は達斎、母は青柳氏で、幼名を時之助といい、後に白山・三省などと号しました。

幼くして同村天満の江端忍や楯岡湯沢(現村山市)の菅原道行(万蔵)に学びました。

文久3年(1863)4月、18 歳の時に本沢竹雲に同行、安井息軒の三計塾に入り、漢詩を大沼枕山(ちんざん)、書を桑野松霞に師事し、谷干城や米沢出身の雲井龍雄らと交友を深めました。


しかし、この上京を父は許さず仕送りがなかったため、苦労の多い3年間を過ごさなければなりませんでしたが、その勉強ぶりを柴橋代官林鶴梁は「逸見生は尋常の書生にあらず」と称賛したのです。

慶応元年(1865)、魯斎は帰郷し、自宅に「筆学稽古所」を開き遠近の多くの子弟を育てましたが、これが明治8年(1875)以降の西里学校へと発展していったのです。


こうした間にも、魯斎は詩作や書に励み、21 歳の時に隅田川の舟遊びを詠んだ「墨江春遊」は、特に優れた作品として岡鹿門に激賞されたといわれています。

同 11 年(1878)、本沢竹雲が貫津(現天童市)の格知学舎に翠濤吟社を開くと、魯斎は長男の松雲と西川菊畦を伴って月例会に参加、詩作に励みました。これらの漢詩はやがて『指翠堂絶句鈔』としてまとめられるのですが、魯斎はそれを待たずに、同 32年 53 歳の若さで亡くなってしまいました。

<年表>
  • 弘化 3年 西里村白山堂組(現河北町西里)の逸見庄左衛門家に生まれる。幼名を時之助といい、同村天満組の江端忍や湯沢(現村山市)の菅原道行に学ぶ。

  • 文久 3年 本沢竹雲に連れられ上京し、安井息軒の三計塾に入門する。

  • 慶応元年 西里村に帰り屋敷の一棟に「筆学稽古所」(私塾)を開き、遠近の子供たちを指導する。

  • 明治 3年 五老山々麓の貫津(現天童市)に格知学舎が完成する。

  • 明治 8年 魯斎の私塾から西里学校が開校する。

  • 明治 8年 長男米男(後の松雲)が誕生する。幼い時から父に漢文学を学ぶ。

  • 明治11年 戸長に選ばれる。竹雲が翠濤吟社を創設すると魯斎は松雲・西川菊畦を伴って月例会に参加、詩作に励む。

  • 明治12年 両京・芸防の間に遊び、名勝古蹟を探り、江馬天江・草場船山らを訪ねる。

  • 明治15年 竹雲の養孫嗣になっていた弟の捨蔵が病死する。

  • 明治22年 西里村の村長に当選するが、病弱の故を以って辞退する。

  • 明治28年 夫人と共に再び両京に遊び、湖山・黄石・如意・松塘の詩老と詩酒を交わす。

  • 明治32年 上京して治療の効なく、53歳の若さで他界する。

  • 明治33年 西里村白山堂の白山神社境内に、門人たちが「魯斎逸見先生碑」を建立する。


<主な著作物、作品等>
  • 指翠堂絶句鈔(出版社:青山活版所 明治36年出版)

  • 息軒安井先生添削魯斎文稿(生家に保存)

  • 旅窓雑吟(生家に保存)

  • 魯斎詩草(生家に保存)

  • 魯斎詩歌漫稿(生家に保存)

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