

市川 清矩
河北町の偉人

ふりがな
いちかわ きよつね
解 説
河北町名誉町民 昭和 58 年 4 月 1 日顕彰
大正2年(1913)新庄町(現新庄市)生まれました。
昭和21 年(1946)9 月谷地町議会議員に初当選し、翌 22 年4月公職選挙法施行初の町長選挙に地域住民の推薦により立候補、見事当選を果たしました。敗戦直後の食糧事情、窮迫した社会情勢の中で、食糧増産、産業振興に努め数々の実績をあげました。
昭和 28 年(1953)9月「町村合併促進法」が公布されるといち早く「河北地区合併促進協議会」を発足させ、昭和 29年 10 月 1 日谷地町、北谷地村、西里村、溝延村を合併成立、新河北町が誕生し、河北町初代町長に当選就任しました。以来、連続 5 期 20 年の永きにわたり在職し、町政発展のため施策に取り組み、数々の実績をあげてきました。
昭和 30 年(1955)、卓越した行政課題に対する認識と洞察力、指導力が認められ、山形県町村会長に推挙され就任。その間、幾多の団体の要職を務め、その発展に多大な貢献をされ、昭和 38 年には、全国町村会副会長に就任するや建設省、総理府、文部省等の数々の重要な審議会の委員を歴任し、国土開発、教育文化の向上に尽くしました。
また、僧籍においては宿用院、定林寺、両寺の住職を勤め、昭和 50 年(1975)曹洞宗宗議会議長に就任し、赤紫恩衣許可。昭和 53 年には、大本山永平寺顧問に就任しました。 昭和 57 年、従五位勲四等旭日小綬賞を受賞しました。

<年表>
大正2年 新庄町(現新庄市)、英照院住職市川碩翁の3男として生まれる。
昭和11年 兄清成が病に倒れ、僧籍を継ぐ。
昭和13年 谷地宿用院住職に発令
昭和14年 駒澤大学仏教学科入学
昭和16年 駒沢大学仏教大学卒業
昭和17年 大本山永平寺僧堂研究科入校
昭和18年 大本山永平寺僧堂研究科修了
昭和18年 山形県立寒河江中学校教諭嘱託となる。
昭和21年 山形県立寒河江中学校教諭依願退職
昭和21年 谷地町議会議員に当選
昭和22年 谷地町長に当選 34歳
昭和29年 町村合併により新河北町初代町長に当選
昭和30年 山形県町村会長に就任
昭和30年 山形県町村会長に就任
昭和31年 緋恩衣許可
昭和33年 河北町長に再選
昭和37年 河北町長3選
昭和38年 全国町村会副会長に就任
昭和41年 河北町長に4選
昭和42年 権大教師に補任
昭和42年 黄恩衣許可
昭和46年 定林寺住職発令
昭和49年 任期満了により河北町長退任
昭和50年 大教師に補任
昭和50年 赤紫恩衣許可 宗議会議長に就任
昭和53年 大本山永平寺顧問に就任
昭和57年 示寂、従五位勲四等旭日小綬賞授与
昭和58年 河北町名誉町民章贈与
昭和58年 大本山永平寺西堂の称号贈与