

槇 五鳳
河北町の偉人

ふりがな
まき ごほう
解 説
生家の槇家は、谷地新町で代々藤左衛門を名乗る富豪の旧家で、五鳳は文化 12 年(1815)7月当家 13 代として生を受け、幼名を恭治郎といいました。富裕な環境と天性として風雅な血筋を受け継ぎ、19 歳には仙台の絵師菅井梅関の門に加わり、梅関との死別でその後江戸に上り、31 歳の時、椿椿山に入門、特に花鳥画を研究会得したといいます。また、江戸滞在中は春木南湖、耕雲堂南溟親子にも学んでいます。梅関と南湖は共に谷文晁を師とした間柄でした。
また、俳諧の師を江戸の一具庵一具に求めました。一具は村山市楯岡の髙梨家の生まれで、盤城の専称寺で剃髪した僧でしたが、江戸に出て俳道に専念した人物で、天保から嘉永にかけて江戸俳壇において屈指の宗匠でした。
師とも傍輩とも思われる人物に、過日庵祖郷もいます。彼もまた天保俳壇では江戸で聞こえた俳人であり、彼の主催した芭蕉忌に一具に伴われ参席したり、祖郷自身が江戸より来町し末永く交友を温めた仲です。
この様に風雅に絵画、俳句に没入したことで、家業の方は長子に譲り、祝髪衲衣の僧体となって、渋川の見える屋敷裏へ閑居し、石蘭亭五鳳と改め、いよいよ俳画壇の深奥を研鑚していきました。晩年の明治 19 年(1886)には句集の編述に丹精し、その後4年の歳月を経て「稲舟集」(俳諧新撰明治五百題)乾坤2巻が上梓されました。五鳳居士没年(明治 23 年)の半年前のことでした。

<年表>
文化12年 出羽国村山郡谷地新町村(現河北町谷地)、槇藤左衛門の長男として生まれる。
天保5年 仙台菅井梅関に師事する。
天保15年 遊学のため江戸へ出立する。(11月まで3ヶ月)
弘化2年 慈恩寺最上院大江雋斎の画会に参席する。
弘化3年 江戸水道橋の椿椿山に師事
弘化4年 江戸滞在中、春木南湖親子に画法を学ぶ。
弘化4年 一具や過日庵祖郷と交友を深める。
弘化5年 江戸を離れ谷地に帰る。
安政3年 江戸の祖郷を谷地に観待する。
安政4年 号を五鳳と改称し屋敷裏に小庵を結び閉居する。伊勢参宮に出立
安政5年 参宮の帰途、本庄にて病に伏す。
万延2年 小自在庵碑建立について門人参会する。
明治元年 小自在庵除幕式
明治10年 句会石蘭社の活動隆盛期に入る。
明治19年 句集「稲舟集」の編集に入る。
明治22年 妻 志う女74歳で逝去
明治23年 五鳳山人卒(74歳)
<主な作品等>
紙本着色 花鳥図(町指定有形文化財 明治23年)
紙本着色牡丹に孔雀図二枚折屏風(町指定有形文化財 明治22年)
句集「稲舟集」(明治22年)