牧野 寛索
河北町の偉人
ふりがな
まきの かんさく
解 説
明治 35 年(1902)1月6日、溝延村(現河北町溝延)の素封家、牧野藤左衛門・つちの 7男として誕生。溝延尋常小学校・村山農学校を卒業後、長兄の若木(おさなぎ)山原野(現東根市神町)開墾事業に従事しましたが、青雲の志を抑え切れず、18 歳頃親兄弟に無断で上京、苦学力行して弁護士を志しました。やがて、千葉出身植吉庄一郎元衆議院議員邸に書生として身を寄せ、中央大学法学部で学びます。在学中の昭和 5 年(1930)には司法試験に合格、翌 6 年大学卒業後、東京の吉祥寺に家庭を持ち、弁護士を開業。併せて中央大学の講師を務めました。
昭和 10 年代に入り、かねてからの大志であった政界入りを図り、政財界の要人、著名な識者と交わり、基盤固めをしました。戦時下の昭和 17 年(1942)、初めて衆議院選挙に立候補しましたが落選しました。翌 18 年には、山形県ゆかりの小磯国昭首相に随行して来県、郷里での時局講演会等に臨みました。
戦後昭和 21 年(1946)日本自由党に入党。同年 4月戦後初の衆議院議員選挙に山形県より立候補し、西村山地方の大量得票でみごと当選を果たしました。以後当落を繰り返し、昭和 30 年代まで 4回当選、9年 5ヶ月にわたり国政の第一線で活躍します。その間第一次、第二次吉田内閣首相秘書官、第三次吉田内閣法務政務次官などの要職に就きました。
戦後当初まで町西部北部地区民の宿願であった滝ノ沢川砂防治水事業についての陳情を
受け、その実現に尽力するなど、郷土発展にも大きく貢献しました。
<年表>
明治35年 溝延村(現河北町溝延)の素封家、牧野藤左衛門、つちの7男として生まれる。
大正元~7年 溝延尋常小学校・村山農学校卒業
大正7~10年 長兄の事業である神町若木山原野開墾(牧野農園)に従事
大正10年 大志を抱いて単身上京。働きながら勉学に励み弁護士を志す。
大正14年~昭和6年 千葉出身元代議士植吉庄一郎宅に書生として寄寓。中央大学法学部に学ぶ。
昭和5年 大学在学中に高等文官司法科試験に合格
昭和6年 中央大学法学部を卒業。東京都武蔵野市吉祥寺にて弁護士を開業。中央大学講師も務める。
昭和10年 政界進出を図り、政財界の要人との親交を深める。
昭和17年 衆議院議員選挙に初めて立候補、落選
昭和18年 時の総理大臣小磯国昭に随行して来県、谷地・溝延で時局講演会など。
昭和21年 日本自由党に入党
昭和21年 第22回衆議院議員選挙に山形県より立候補し初当選(以後4回当選、在職9年5ヶ月)
昭和21年 第1次吉田内閣首相秘書官となる。
昭和22年 第23回衆議院議員選挙に立候補するも次点にて落選
昭和23年 第2次吉田内閣首相秘書官
昭和24年 第24回衆議院議員選挙に立候補しトップ当選
昭和27年 第25回衆議院議員選挙に立候補するも次点にて落選
昭和28年 第26回衆議院議員選挙に立候補し当選
昭和30年 第27回衆議院議員選挙に立候補するも次点にて落選
昭和33年 第28回衆議院議員選挙に立候補するも次点にて落選
昭和35年 第29回衆議院議員選挙に立候補し当選
昭和37年 清瀬衆議院議長と共に南米諸国を視察。列国議会同盟会議に出席
昭和38年 山形市立済生館病院にて、現職のまま病没。61歳