

宮本 忠孝
河北町の偉人

ふりがな
みやもと ただたか
解 説
河北町名誉町民 昭和 57 年 3 月 27 日顕彰
終戦後の昭和 21 年(1946)に谷地町(現河北町谷地)の旧円福寺跡に宮本医院を開設し、戦後の疲弊した故郷の地域医療と、民芸により培われた思想をもとに地域文化の保存伝承、観光行政の発展に尽くしました。
昭和 24 年以降、学校医として生徒の健康管理にあたります。特に保護者会に結核の予防対策を提示して、その追放に努めました。
また、東北地方に圧倒的に多い成人病である脳卒中を、疫学的実態調査を裏付けに耕作種別、食品別調査表並びに大地図を作製して、対策と食事の啓発指導をおこないました。
昭和 30 年以降には、乳児フェニルケトン尿症の早期発見の為の検診の普及に取り組み、昭和 49 年からは山形放送のYBCラジオドクターとして人気を博しました。
昭和 39 年(1964)より河北町郷土資料調査委員会委員長並びに河北町文化財調査委員に就任。以降、地域に伝承する藁細工・谷地こけしなどの民具、太神楽や風祭太鼓.田植え踊りなどの郷土芸能の価値を認め、伝承者の誇りを高めて保存の実をはかりました。
紅花をアイデンティティの中核としたまちづくりの提言や、谷地のひな祭りが伝える古い風習、どんが祭の奴行列、囃子屋台などを全国へ発信し、観光行政にも寄与しました。

<年表>
明治36年 東京市赤坂区青山にて出生
昭和 3年 東北帝国大学医学部卒業
昭和 8年 東北帝国大学宇学部大学院修了
昭和10年 陸軍省医務局員
昭和10年 陸軍省医務局員陸軍省軍務局・ドイツ国駐在員(昭和13年帰国)
昭和18年 大日本航空医学会創立・評議員 幹事
昭和18年 陸軍軍医大佐・南方総軍軍医部
昭和19年 医学博士
昭和19年 正五位 勲三等瑞宝章
昭和21年 谷地町(現河北町谷地)にて宮本医院開設
昭和24年 学校医 以降30年に亘り結核の追放に力を尽くす。
昭和30年 乳児フェニルケトン尿症の検診の普及に力を尽くす。
昭和39年 河北町郷土資料調査委員会委員長
昭和39年 河北町文化財調査委員
昭和43年 山形放送 昭和50年まで人生相談
昭和44年 山形県民芸協会副会長
昭和44年 山形県福祉協議会評議員
昭和44年 河北町社会教育功労賞
昭和47年 ボーイスカウト山形第六十七団(河北町)創立・育成会長
昭和48年 河北町芸術文化協会創立・顧問
昭和48年 山形県学校保健表彰
昭和49年 山形放送 ラジオドクター
昭和52年 寒河江市西村山郡医師会資料調査委員長
昭和54年 第25回 山形県斎藤茂吉文化賞受賞(郷土文化)
昭和55年 読売新聞社「医療功労賞」
昭和55年 河北町振興審議会会長
昭和56年 河北町観光協会会長
昭和57年 河北町名誉町民の称号
昭和62年 逝去
<主な著作物・編纂物・作品等>
人間石原莞爾片々録(出版社:麹町企画 昭和53年出版)
八月十五日をめぐうる人々 -敗戦秘話-(出版社:麹町企画)
逆索引・山形方言集Ⅰ
逆索引・山形方言集Ⅱ(補遺別冊)
(山形県医師会会報 S52年7月~53年6月に掲載した
「逆索引・医事方言」昭和54年出版)
霊界逍遥 -あの世の風景-(出版社:西田書店 昭和63年出版)
最上川の恙虫、恙虫病
藁の用と美
灰ばばあと七つのはなし
わが町のサムライ
はなかみ先生行状記
雪
谷地通水工事係雑誌
小説「七号病棟の女」
◎以下、寄稿
山形博物誌
日曜随想
日本ガラス工芸学会誌GLASS
山形新聞「人生ガイド」
山形県医師会会報「冬虫夏草」
民話と文学
ヒューマン
山形散歩
土団子
温泉
医家芸術
雪国
山形交通
ぽすと
句誌「ひまわり」