柴田 秀夫
河北町の偉人
ふりがな
しばた ひでお
解 説
河北町名誉町民 平成 7 年 2 月 22 日顕彰
明治 36 年(1903)に生まれ、山形高等学校理科乙類卒業を経て、昭和3年(1928)、東京帝国大学医学部卒業後すぐに同伝染病研究所に入所、同 10 年医学博士となりました。
帰郷後、山形保健所初代所長に就任し、谷地町(現河北町)に病院を設置したいとの一念から、昭和 22 年、日本医療団谷地病院を発足させ初代院長となりました。この谷地病院を県内最初の県立病院に昇格させるため尽力し、念願かなって昭和 24 年、県立谷地病院が発足、初代院長として医療に専念しました。「院長先生」と親しまれた院長時代は勿論、退任後も嘱託医として医療保健の向上に尽くしました。長年に渡り結核の権威として君臨し、生命を授かった若者は数知れません。
氏は河北病院の産みの親であると同時に、河北町民の生命の親でありました。さらに、学校医として 36 年の長きにわたり児童の健康管理にあたり、成人病の予防対策に努められた成果もまた高く評価されているところです。
氏は俳号を「冬野」といい、奥様の名前に由来するといいます。昭和 24 年、谷地病院で入院患者の心の衛生と趣味の向上のため俳句を奨励しました。やがて、本格的な句作を指導し、「ひまわり句会」を結成し主宰となりました。選者に名和三幹竹を迎え、細谷鳩舎・柴田冬野・鈴木木槿・細谷紅児・佐藤木鶏などが月刊俳誌『ひまわり』の編集にあたり、県内有力な俳誌に成長しました。地方俳壇の指導育成にあたった功績が認められ、県教育功労者表彰を授賞しました。
<年表>
明治36年 出生
昭和15年 山形簡易保健健康相談所長
昭和19年 山形保健所初代所長
昭和21年 日本医療団山形診療所長
昭和22年 日本医療団谷地病院発足、初代院長
昭和22年 谷地中部小学校父母教師の会初代会長
昭和24年 山形県立谷地病院発足、初代院長
昭和24年 西村山学校保健会理事
昭和24年 西村山地方国民健康保険診療調整会委員
昭和24年 谷地中部小学校医
昭和25年 谷地町社会教育委員会初代委員長
昭和26年 山形県寒河江保健所結核診査協議会委員
昭和32年 山形県学校保健優良研究者表彰
昭和34年 山形県社会保険診療報酬請求書審査員
昭和38年 山形県国民健康保険診療報酬審査委員会委員
昭和47年 河北病院長退職
昭和49年 勲三等瑞宝章受賞
昭和49年 山形県学校保健功労者表彰
昭和51年 谷地八幡宮氏子会長、谷地の舞楽保存会長
昭和53年 山形県教育功労者表彰
昭和56年 新病院移転まで週1~2回診療に従事、以後新病院での結核患者指導に月1回従事(昭和60年6月に結核病棟廃止するまで)
昭和62年 谷地八幡宮御社殿改築奉賛会長
<主な著作物・編纂物・作品等>
句集「摘草籠」(出版:昭和47年)
合同句集「向日葵」(出版:昭和53年)
句集「初竃」(出版:昭和61年)
合同句集「ひまわり」(出版:昭和62年)